大好き

わたしは愛という物がよくわからないかもしれない。

 

でも、友愛はわかる、いうよりも、重い自覚があるため、なるべく自制している部分がある。ただ、受け取ることは難しかったりする。友人が真摯にわたしに対して伝えてくれた言葉を、嬉しいと感じるが、何処かすり抜けていくような感覚がある。いわゆる機能不全家庭で育った愛情飢餓の人間特有の「底が抜けたバケツ」と言うより、ただ単純に鏡の中から抜け出せていないのかもしれない。一方通行で愛を注ぐことは、自分の領域は侵されずに済む。つまり傷つかない。友人という関係性は恋人と違い、終わりが来る可能性が圧倒的に低い。信頼関係を築けば、何ヶ月何年会っていなくても、昔と変わらず話せたりする。まあ、関係性は括りに入れられない類も勿論あるけれど、括ると生き易い側面があるのだと、今のわたしは思う。建前や便宜上でも何でも。わたしは「友達」が大好き。

 

わたしはわたしのことを、恋愛的な意味で好きだと言う人を基本的に頭がおかしいと思っている。まあ、恋愛感情そのものが、脳の異常なのだから当然とも言える。よく目が見えていない人もいるけれど、多くの恋は片目しか見えていない状態ではなかろうか。それが悪いこととは思わないが、自分がそうなるのはこわいな、と思っている。臆病だから。

家族愛については......兄妹愛はわかる。少し歪んでいるかもしれないが。存命している親族の一人である祖母のことも、最近になって何とか居場所がわかって連絡はとれたけれど、やはりほぼ関わりはないが、亡くなってしまった時には泣くだろう。

 

あと、ファンだって言ってくれた人達のことも、愛してると思う。よくラブだとか愛だとか言っていたのは嘘ではない。わたしはたくさん救われた。みんな幸せになってるかな。幸せを感じ取れなくても、生きてくれてさえいればいい。Twitterとかたまに見たりしたよ。一年に一回かそれくらい。いやもうちょい見てるかも。気持ち悪かったら申し訳ないです。言葉が好きな彼女は創作に没頭していたり、ある女の子は被写体活動を始めて信頼出来るパートナーを見つけていたり、お洋服が好きな彼女は今どうして過ごしているだろう、彼は相変わらず可愛い女の子が大好きでスケベなんだろうな、あの人は生き辛さを抱えながらも仕事を頑張ってきっと誠実に生きてるんだろうな、わたしに雪の結晶のような真っ白できらきらした言葉をくれた彼女は今もたまにこんなブログをもしかしたら見てくれてるのかな。もっと愛を伝えたかった。愛してるよ。過ぎ去り風化していっても。

 

あれ、また遺書みたいな駄文を書いちゃった、えへ。

書きかけの下書きが大量にあるの困ったなあ。なかなか読書が出来ないし語彙力も下がっていて、それも困る。一ヶ月前くらいは一日一回フラッシュバックが普通だったので、少しは調子が良くなっているのだと思いたい。

 

大仰で大変恥ずかしいが、他者を愛しいと思えるこころが在ることを、喜ばしくまた誇らしくも思う。それは揺るぎない光だ。