透明になりたいと

 

「生きなければ」そう思うのと同時に、破滅したいと思ってしまう。その摩擦から膨らんでいく希死念慮自殺するならば誰にも気付かれず、未遂にならないよう確実に死にたい。しかし、わたしは自殺企図までは至っていなかった。

 

入浴どころか洗顔すらせず、服薬を放棄し、ひたすらに酒を煽っては、食べ物を詰め込み続けた。眼鏡やコンタクトはしなかった。視力の悪いわたしの視界は常にぼやけた。そして、とにかく酒を飲み続ける。突然に処方薬を飲むのを止めたため、離脱症状もあったのだろうか。遠ざかっていく現実と鈍る思考。何もかもが、どうでもよかった。電源が落ちたiPhoneは部屋のどこかに行ってしまった。ベットの上とコンビニの往復。チューハイやビールの缶、ゴミが部屋中に散らばる。せめて拒食に転じていたならば、そのまま朽ちて死ねたのかもしれないのに。お金も無駄に使ってしまった。良いことなんて何一つない。自暴自棄という言葉が適切かもしれない。壊れたかった。もっともっともっと。インターホンが鳴った。友人の、生きているか、と呼びかける声が聞こえた。わたしは出られなかった。ぐわんぐわんと、耳鳴りがしていた。街道を走る自動車の音がやけに大きく部屋に響き続けていた。わたしはそれを幻聴だと思った。酒を飲む。頭が痛い。喉に指を突っ込み、トイレで嘔吐した。その後、眼鏡をかけて、鏡を見た。二ヶ月程度で急激に太らせ、肌は荒れ髪はぼさぼさで、全てが醜く惨めな豚のその裸体を、わざわざ見つめた時に、わたしは何を思ったのだろう。これで大丈夫、もう誰も期待しない。全員から失望され嫌われ、忘れられる。醜くなれば性的な対象に見られることもない。怠惰で甘ったれ。友人もいなくなる。アルコールでもっと頭も悪くなった。全て忘れられた。全て忘れられる。執着してくる男性からも。そんなことだろうか。馬鹿げた考えなのは間違いなく、所詮ただの逃避に過ぎない。だからわたしは死ねない。死なないというより死ねない。その程度。死ぬ勇気などない。臆病。お酒が弱かったら急性アルコール中毒で死ねたかもしれない、なんて、もしもの話をしてもしょうがない。わたしは死なない。

 

確か一月頃。手続きの関係で、実家の近くに行かなければならなくった。感情が引っ張られるのではないかと不安があったので、そちら方向に住む友人にお茶をする約束を取り付けた。用事を済ませ、たいした結果も得られずに落胆したまま、友人に会いに行った。約束の駅に着いたその出会い頭に、「SNS上で知人が自殺を図っているのを発見した」と彼は警察に通報をした後だったようで何やら話し込んでいた。今考えると訳がわからない。駅の近くの紅茶屋さんに行った。飲んだ紅茶は美味しく、良い店だった。むしろ今まで何故行かなかったのだろう。生まれてから実家を出るまでは馴染みがある街だったのに。前の席に座った友人は淀みなく話し続けた。それらは、わたしの回らない頭をつるつると滑り、全く理解出来ずにいたが、まあ楽しかった。

その子は、周囲の子らに自己愛性人格障害だとか揶揄されていて、詳細は知らないが色々あって関係を切られたか切っただかしたらしい。その子は、言い方は悪いが、インターネット上で所謂メンヘラやヤク中をホイホイするアルファツイッタラーとやらをやっていた。某財閥の御曹司でしかも容姿端麗頭脳明晰とかいうチートなのだが、自己愛性人格障害が生まれつき莫大な権力を持っている場合はどうなっていくのだろうか。わたしは父のパターンしか知らないので興味がある。しかし彼が本当にそのようなパーソナリティ障害なのかはわからないし知らないし、本来は軽率に言うべきではない。話が逸れた。事実は小説より奇なり。

 

そこまではよかった。友人と別れ、わたしは一人になった。精神状態が実家を出ていくか出ていかないか位の時期の不安定なそれになっていることに気付く。気付いていたが、混乱していた。やはり実家の近くは良くなかった。途中の駅で降りて、ふらふら徘徊していた。乗り換えで降りた新宿だった。よくわからない男に捕まった。あれそれは部屋の風呂場の窓の隙間からiPhoneのカメラレンズが向けられていたり、ポストにICレコーダーが入っていた頃のことだっけ。わからない。わからないわからないわからない。思い出したくないので省略。その件については不明なまま。徘徊していた時に近辺にいた何故かわたしを好いている同い年の女の子がラブホで保護してくれたりもした。当時のわたしは彼女にすこし苦手意識があった。利用しているようでいたたまれなかった。とにかくわたしは家に帰りたくなかった。そもそも帰る家など何処にもないように感じた。今までずっとそうだったのだけれど。

 

度々、友人・知人との一切の連絡を遮断し、何も出来ず引き篭ることを繰り返した。何しろ記憶が曖昧なので、わたしと関わりがある友人がもしこれを読んでいて、私が述べていることに記憶の改ざんがあっても許して欲しい。敢えて書かないことも勿論あるが。つーかフィクションだから。

 

思えば、すでに十二月頃から心因性の発熱があった。原因不明の心因性発熱が続き、日に日に衰弱。というか一人暮らしを始めた昨年の一月頃から、インフルエンザには数ヶ月の間に二回なったし、結膜炎や咳喘息にも何度もなっていた。幼少期、それこそ身体的な成熟や、物心がつくのも遅かったような気がするが(これに関して確証はない)、虚弱体質などではなかったように思う。

 

四月五日。時刻不明。様々なことが重なり続け、パニック発作を永遠と起こしていた。フラッシュバックを起こし、健忘が激しくなり、過呼吸のような発作を繰り返していた。わたしは何故か連絡先に残っていた、ひとつの電話番号を指で押していた。最初に女が出た。「もしもし」と言ったその声は、聞き覚えがあり、明るく高くて、とても元気そうだった。四年ぶりにその声を聞いた。「もしもし」とわたしは応えた。「ごめんなさい、また掛け直します」と言って、切った。ずっと、錯乱していたので、どの位の声量だったかわからない。数分後にもう一度かけたら、男が出た。もっとパニックになったわたしはひと言も喋れなかった。「何かぜえはあ言ってるよ」と、男は、背後にいるであろう女に声をかけた後に、電話はブチリと音を立てて切られた。酷くどうでも良さそうで、それでいて愉快そうな、当時のあの冷たい声のまま。

 

恐らく、わたしは悲しかった。名乗らなかった、発作を起こしていた、だからそもそも彼らが自分の子供だと気付いていないかもしれない。それでもとにかく悲しかった。悲しいと感じる自分自身にとても失望した。わたしは全部知っていた。全部、わかっていた。彼らは彼らふたりだけの世界だけで完結していて、それで永久に幸せなのだと。わかりきっていたのに、踏み込んできた他人に何度も何度も「親は子供を愛するものだ」という思想を押し付けられ続けて、揺らいでしまった自分がいた。恥ずかしかった。わたしは、わたしが選択して、わたしがあの狂った家を捨てたと思っていた。思い込もうとしていた。そうすることで生きてこれた。あの人達のことを、心の底から憎むことも、愛されたかったと喚き散らすことも出来ず、全てに蓋をした。わたしは何のために生きているのだろう。生きることは痛く、苦しく、終わらない戦いだ。お前らのせいだと遺書を残して死んだら数秒でもいい、彼らは罪悪感を抱くだろうか。あなたたちの理想通りに生きられずごめんなさいと綴れば、少しでも後悔してくれるだろうか。そうすれば、彼らはわたしのことを見てくれるだろうか。たくさん復讐したよ、ママのために。思い込みだ。パパ、躁転した時に、容姿に関してだけは関心を向けてくれたね。だから可愛くあろうと着飾ってみたよ。それも思い込みだ。何もわからない。きっとママとパパにとって、軽蔑されるようなこと、いっぱいしたよ。叱られちゃうね。それも、これも、思い込み。勘違い。勝手な自己完結。何もわからなかった。死にたいと思った。孤独だった。愛情飢餓で、見捨てられ不安もふつうにある、自身と初めて直面していた。受け入れられなくて、生きている意味がわからなかった。意味がなきゃ、縋り付くものがなくては、生きていけない。そうとしか思えなかった。

 

電話口の母親の声が、いつまでも耳にこべりついていた。

冒頭に至る。