愛憎

2021.2.15 加筆修正 ちょっと滅茶苦茶すぎるからまた修正したい駄文

 

過去のことをいつまでも言っていてもしょうがない。当たり前だ。だから今までわたしは「後悔なんてしない」と決めて生きてきたのだ。それは、してたまるか、という反抗心だったのだろうか。

 

しかし、わたしにとって、両親とのことは決して過去ではなかった。ただ全てを一度無かったことにした。脳内で死んだことにした。当時のわたしは何度もノートに書いた。「パパとママは死んだ。」そうして、筋書きを書き換えた。わたしの背後が崖なのは気の所為だ。たとえ本当に崖だとして、そこに落ちたとしても、怪我をする程度できっと死にはしない。わたしの父と母は生きている。死んでなどいない。これは事実。「親子関係」というのは複雑なもので、法律的には縁を切ることは出来ない。つまり、彼らとの問題は過去ではなく、わたしの現在の問題であり、これから先も付き纏っていく。

 

人並みに後悔だってしながら生きていこう。もう後悔しないなんて逃げはやめようと思った。ただ、わたしは精神疾患であるし、まあうつ病だし不安障害だし強迫性障害だし摂食障害だし醜形恐怖だし発達障害だしPTSDだし(以下略)Twitterのbio欄に病名を並べている人の真似ではないです。本当です。本当に勘違いして欲しくないので重ね重ね言うが本当だから。そういえば嘘を吐いているか見抜く時のひとつに本当をやたら使うってがあるって話を聞いたことがある。

 

話が逸れました。まあ要するに、わたしは病気と呼ばれるものを幾つか抱えているらしい。暗い方へ暗い方へ思考か引っ張られやすい状態なのだから、後悔なんてした途端、一歩間違えたら、延々と自己嫌悪に陥ったり、過去の経験を反芻し続けたりするのも目に見えている。自己嫌悪なんて最悪だ。結局ただの陶酔。わかっていてもしちゃう。根付いた思考の癖を変えていく必要があるのでしょう。というより、病気云々関係なく、わたしは元々、後悔しやすい性格だからこそ、後悔しないと決めていたのかもしれない。で、えっと、具大的に何をするかってとこですよね?模索します!取り敢えず、後悔のしすぎには気をつけよう!って話!

 

 

 

閑話休題

 

十一月二十八日は誕生日でした。これは誰にも話していないし、あまり記憶もないが、誕生日前日は自傷行為に走ったりなど一人で暴走していた。コントロール出来なかった。どうしたらいいんですかね。バランスが保てないんですよ。自分が生まれた日を祝われるとかこわい、と思った。何もかもが今のわたしに見合わない。でもそのくせインスタグラムに「祝って」とかストーリーに載せるあたり、本当にわたしは面倒なひとですね。さみしいんだもん。さみしいの。ねえきいてよ。さみしいの。さみしいの。さみしいの。Amazonの欲しい物リストでも作ってInstagramかどっかに載せようかあ、と思って少しだけ作ったりしてみたけど、卑しいかなと思ってやめた。偉い。そもそも誰も買ってくれない。ほら期待すると悲しいでしょう。子供の時からわたしそう思ってた。期待しないって。親にも言ってたな。えっなんか可哀想になってきた。その子、可哀想......。

 

 

 

おふざけはここら辺にします。メッセージを送ってくださったり、プレゼントを送ってくださったり、当日に一緒にケーキを食べてくれた友人も、とにかくお祝いをしてくれた全員に感謝です。大好きです。このブログ誰も見てない気がするけど。ウケる。自分の誕生日を好きになりたい。あとわたしは可哀想じゃない。