愛されたいのは機密事項

 不安なのが安心、というかそもそもそれが普通。その認知を、どうやったら変えることが出来るのでしょう。安心を求めているつもりで、不安を掻き集めていたら、そりゃあ変な人も寄ってくるし、自身を取り巻く環境も悪化します。

 生き辛いし、息もし辛いし、行き詰まりさえ感じます。

 友人に貸した小説に、実家に居た頃のわたしが書いたメモが挟まっていたらしい。そのメモの一部に「幸せになりたい」と書いてあったとか。普通に恥ずかしいですが、それ以上に当時の自分をわたしは可愛らしく思います。とても素直な願いを綴っていると。でも、わたしはここ数年、そのように切に願ったことはありません。それは恐らく、自分が思う幸福が訪れた時、それを真っ直ぐに受け止めたり、そこに自身を委ねることが出来ないと、痛い程わかっているからです。それらが思い込みでないとは言い切れませんが、現状そう認識しています。

 

 幸福は恐ろしい。他者との関わりで生まれたものは特に。そうすると、自己実現とか、そういう話になっていくのでしょう。ただただ「安心が欲しい」とか、多分それはもう求めるべきではない願望で、叶わないのでしょう。母性を、無償の愛を、自分が与えられなかったと感じている幻想に、夢を見ているのでしょう。いえ、求めることも夢を見ることも自由だと思います(わたしは常々人の母親を盗みたいと思っています)。いけないことはないでしょうが、どうすることが「今後より良くあれるか」という話です。実際のところ、わたしは無償の愛など信じていませんし、それを謳って近寄ってくる人のことを見下してさえいます。至って真面目に言いますが、アガペーなんて、悟りを開かなければ無理だと思っています。信じていないものを得ることは出来ないでしょう。この欠落を、愛する側になることで満たしていったりするのでしょうか。飽くまでもそれは、自分自身の為ということは決して忘れずに。どうでしょうか。今のわたしにはまだわかりません。

 話は変わりますが、お酒の良いところをひとつあげると、飲んでも飲んでも満たされないところです。所詮それってナルシシズムだし、単なる自傷行為です。満たされなどしませんし、満たされたと錯覚する瞬間があると、わたしは弱くなります。これはお酒に限らずですが。

 アルコール依存症の診断を受けている友人が、様々なことの積み重ねで精神的に参って帰省しており、先程すこし通話をしました。精神状態が前より良くなっているように見受けられた彼女は、「結局寂しかったからだと思う」と言っていました。彼女の状態が良くなっていることを喜ばしく思います。それとは別に、彼女の発言は、一理どころか百理あると思いますが、わたしは生家に帰る選択はしません。幾ら、都心の女の一人暮らしで、トラブルが多発して、警察という国家権力に当たり前のように「最終的に頼れるのは親族しかいない」と、耳がタコになるくらい言われても。だって、六年程、一切合切関わらずとも、わたしは今まで生きてこれました。これからも、そうして生きていけば良いんでしょうし、こんなのよくある話でもあるでしょう。あと、警察官は父とわたしの間で起きた過去の警察沙汰の記録を見てからそういうことを言えるもんなら言ってほしい。

 しかし、何でしょうか。そうして、わたしは、これからどうこの寂しさを抱えて生きていけば良いのでしょうか。途方に暮れるばかりです。多くの人が寂しさと共に生きているのだと思います。いつまでも膿んだ傷をなぞって自分を慰めていても、何も意味などないでしょう。けれど、残念ながら意味を持たない夜も、わたしが明日を生きるために必要なんですよ。

 

※お察しの通り酔っています。ぐちゃぐちゃ。